猫でわかるレオロジー

猫は流体?──“やわらかさ”を科学するレオロジーの世界へ

箱の形に沿って体を変える猫。まるで流体?

1.「猫は液体である?」──イグノーベル賞の不思議な研究

2017年、物理学のイグノーベル賞に選ばれた論文がありました。
タイトルは「猫のレオロジーについて(On the Rheology of Cats)」、フランスの物理学者マーク・アントワン・ファルダン氏が発表した、「猫は固体なのか、それとも液体なのか?」というユーモラスなテーマの研究です。
もちろん、猫は水のような本当の液体ではありません。
しかし、箱やワイングラス、洗面器の中に体をすっぽり収める猫の姿を見れば、たしかに“流体”のようにも思えます。
この論文では、猫の体が容器に合わせて形を変える時間に着目し、猫が「固体」と「液体」の中間にあることをレオロジー(流動学)の概念で説明しています。
猫が瞬間的に動くときには筋肉が緊張して“固体的”に振る舞い、ゆっくり休んでいるときには“液体的”に体の形を変える。
観察する時間の長さによって、猫は固体にも液体にも見える──そんなユーモラスな結論です。
この「猫の流体性」は笑いを誘う話題でありながら、実はレオロジーの本質をうまく表しています。

2. 固体と液体の違いは、時間で決まる

学校の理科の授業では、
「固体=形を保つ」「液体=形が変わる」と教わります。
しかし、レオロジーの世界では少し違います。
ここでは、“どのくらいの時間で形が変わるか”を基準にして考えます。

ピッチドロップ実験:観察時間が長くなると、アスファルトでも“流れて見える”

物質が外力を受けて変形するとき、その反応の速さはさまざまです。
すぐに形が変わるものもあれば、非常に長い時間をかけてゆっくり変形するものもあります。
この“変形に要する典型的な時間”を表す指標が、緩和時間(relaxation time)です。

観察時間 T と緩和時間 τ の比

De=τ/T

をデボラ数と呼びます。
この数が大きいとき、物体は“固い”ように見え、
この数が小さいとき、物体は“流れる”ように見えます。
つまり、緩和時間より短い時間で観察すれば固体のように、緩和時間より長い時間で観察すれば液体のように見えるということです。

デボラ数という名前は、旧約聖書に登場する預言者デボラ残した“山々でさえ神の時間では流れる”
という詩篇から取られています。人間にとっては固体のように見える物体でも、神様の時間スケールで見れば流れているように見える、ということです。
ファルダン氏の論文では、猫のデボラ数が「1秒〜1分程度」と推定されました。
このくらいの時間スケールであれば、私たちの目にも猫が「固体のように見える瞬間」と「液体のように形を変える瞬間」の両方を持つことが観察できますね。

3.「すべては流れる」──レオロジーの考え方

レオロジーの語源は、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉「πάντα ῥεῖ(パンタ・レイ)=万物は流転する」にあります。
この考え方は、私たちが“固体”と思っているものさえも、時間のスケールを変えれば“流動”していることを教えてくれます。
たとえば氷河は岩石のように見えますが、何年・何十年という時間で見れば、ゆっくり流れています。
同様に、アスファルトやチョコレート、歯磨き粉なども、「固体」と「液体」のあいだにある物体(粘弾性体と言います)です。
猫をはじめ、私たちの身の回りの多くのものが、じつはこの「中間の性質」を持っています。

固体と液体の中間層

4. 猫の“やわらかさ”が教えてくれること

猫の体の柔らかさは、進化の結果です。
もともと猫の祖先は、乾燥した砂漠で暮らす「待ち伏せ型のハンター」でした。狭い岩陰に身を潜め、一瞬で獲物に飛びかかるために、背骨や関節が驚くほどしなやかに進化しました。
この柔軟性は、レオロジー的に言えば「低いデボラ数」──つまり、“流れやすさ”の象徴です。
固体のように形を保ちながらも、状況に応じて液体のように形を変える。
猫はまさに、自然がつくり出した“粘弾性体”なのです。

待ち伏せ型のハンター

5. レオロジーとは、“やわらかさを測る科学”

レオロジー(Rheology)とは、物質が「どのように変形し、流れるか」を科学的に扱う学問です。
英語の “flow(流れ)” の学問というよりも、「やわらかさ」や「変形しやすさ」を力学的に定量化するもの、といえます。
たとえば:

  • ハチミツやケチャップのとろみを“粘度”で表す
  • ゴムやジェルの弾力を“弾性率”で表す
  • 時間によって変化する粘りや固さを“緩和時間”で表す

これらすべてがレオロジーの領域です。
食品、化粧品、医薬、塗料、樹脂、金属、地質──流れや変形のあるあらゆる材料に関係しています。

6. おわりに──“流れ”を見る眼を持つ

イグノーベル賞を取った猫の研究は一見ユーモアですが、その背後には「変形を時間の目で見る」というレオロジーの重要な思想が隠れています。
固体か液体かは、物質が決めるのではなく、私たちが“どの時間で見るか”によって決まる。
この視点を持つと、身の回りの“流れないもの”も、“流れるもの”として見えてきます。
そしてそれを定量化するのが、レオロジーという科学です。
あなたの目の前で丸くなって眠る猫も、少し時間を長く取って眺めてみれば、ゆっくりと形を変えるまさに“流れる”存在なのかもしれません。

洗面台に流されそうな猫